2016年2月29日月曜日

キューバ旅行振り返り(10)~ハバナ空港→帰国 &全体の印象

1月28日(木)午後1時過ぎにハバナのホセ・マルティ国際空港に着いた我々はアエロメヒコ航空AM452便に乗り、ほぼ予定通り午後3時半過ぎにハバナを出発しました。
約3時間20分のフライトで、メキシコシティの空港に現地時間午後6時少し前に到着。
メキシコシティの空港では7時間近い待ち時間があり、その日の夜中、29日(金)0時35分発のアエロメヒコ航空AM58便で成田に向け飛び立つ予定でした。

<ハバナを発つ/ハバナ近郊の町と大西洋 2016年1月28日16:01>

しかし、ここでトラブルが発生しました。このAM58便には夜中になっても搭乗できず、出発予定時間の直前になって、「機体に不具合が見つかり、この便はキャンセルになり、代替機による出発は朝になる」とのアナウンスがありました。代替機は米国にあるのを飛ばして、こちらに持って来るとの事です。

我々乗客には飛行機内で使う青いブランケット(毛布)が1枚ずつ支給されただけで、「アエロメヒコ航空のカウンターに並んで待ってください」という指示があるのみ。メキシコシティは緯度は南の方にあるものの、標高2,240mと高地のため、深夜は寒く、我々は皆、ブランケットを体に巻き付けて寒さに震えながら、明け方まで何時間も立ったまま待たされました。その間、アエロメヒコ航空側からは何の状況説明もなく、ただ並んで待てと言うだけ。我々は皆ほとんど徹夜状態で、疲労困憊しました。日本のビジネスだったら考えられない、航空会社として最悪の対応だったと言うしかありません。

ともかく代替機の搭乗券をカウンターでもらい、29日(金)朝10時半頃に我々を乗せた代替機はようやくメキシコシティを飛び立ちました。

<成田空港に着いたアエロメヒコ航空機 2016年1月30日17:06>

成田空港には1月30日(土)午前6:20に着く予定でしたが、結局成田に着いたのは10時間半も遅れて、同日の午後5時頃。それからでは、マイカーを駐車してある成田ビューホテルに寄って、マイカーを運転して蓼科高原の我が家に着くのは深夜になってしまいます。厳寒期の我が家に入るためには、雪掻きもしなければならないかもしれないし、水道の水通し作業も必要なため、この日に帰るのはあきらめました。中継地点の八王子市内のビジネスホテルにその晩は急遽泊まりました。

<中央高原道路から見る八ヶ岳連峰 2016年1月31日11:15>

翌朝、31日(日)はゆっくり八王子市内のホテルを出発。中央高速道を走っていて、山梨県に入り、八ヶ岳連峰が見えてくると、1週間しか離れていなかったのに、山々は何か懐かしいような、ホッとするような気持ちを与えてくれます。

小淵沢インターチェンジで降りて、インター近くのドッグホテル「asako-pan」に預けてあったランディを迎えに行きました。近づくとランディは我々の気配を察知して、もうフェンスの所に迎えに来てくれていました(下の写真)。ここは広々とした牧場のようになっていて、犬たちは一日中外で遊べます。ここだと安心して預けて、旅行ができるので、助かります。

<待っていたランディ 2016年1月31日11:32>

さて、帰国してからも、キューバについては「あれは何なんだろうか?」とか色々考えるところがあります。そういう点では、キューバは不思議なアンバランスのある、なにか魅力のある国だと思います。

キューバは経済的には相当貧しいようです。観光地は流石にきれいにメンテナンスされていますが、ちょっと横道に入ったり、はずれた所、普通の地方の町などでは古くなって、くたびれた建物、粗末な住居が多かったです。しかし、建物はくたびれていても、街や通りはゴミが散らかっていることはなく、基本的にこぎれいでした。また、キューバにはスリや置き引きなどはあっても、殺人や強盗などの凶悪犯罪は少ないそうです。実際、旅行中に危ない雰囲気や不安な雰囲気を感じたことは一度もありませんでした。キューバには陰湿な空気はなく、人々はおおらかな感じでした。

<キューバ全土/Googleマップより>

これを自分なりに考えてみると、次の理由が挙げられます。

①キューバでは医療費は子供から大人まで無償である。医療の技術レベルは高く、キューバの人口1万人当たりの医師数は67人と、世界で最も多いグループに属してる。

教育は大学まで全て無償である。中学校までが義務教育だが、国民の大半は高等学校を卒業している。

キューバの国民は、全員が配給手帳を所持していて、毎日配給を受ける。(ただし、配給と言っても無料ではなく、国家による生活物資の超低価格販売との事。) つまり、最低限のある程度の物資は支給されるようである。

④キューバには貧富の差が少ないと思われる。つまり、国家としては貧しいが、全員が同じように貧しいように見える。キューバには、中国にあるようなファミリー内で巨額な富を蓄えるような特権階級は存在しないようである。

キューバは革命後も、米国などに亡命しようとする人が後を絶たず続いていたことを考えれば、経済的に困窮していた時代が長かったことは確かでしょう。しかし、少なくとも現在は上記のように生きるための最低限のものは保障されており、人心はすさんではいないと思われます。それが治安の良さにつながっていると推察されます。

<我々のキューバ・ツアーの経路>

社会主義(及び共産主義)が失敗だったことは既に歴史が証明していると私は考えています。他の社会主義国には私は行ったことがないので、にわかには断言できませんが、もしかしたらキューバは歴史上最もましな社会主義国かもしれないという印象を受けました。


☆最後にキューバを代表するクラシック・ギタリストであり、作曲家、レオ・ブローウェル(Leo Brouwer)の作曲による名曲、『11月のある日』の動画をアップします。
演奏は日本の人気ギタリスト、大萩康司氏です。


大萩氏はキューバには既に10回位は訪れているそうです。


(追記:この「キューバ旅行振り返り」のシリーズ記事を書くにあたり、キューバ・ツアーでご一緒だったH.O.氏に提供していただいた写真を一部利用させていただいたこと、及び、ハバナのキャバレー・トロピカーナ・ショーについては同じくツアーでご一緒だったT.M.氏からご提供いただいた写真と動画を利用させていただいたことを申し添えます。お二人にはお礼申し上げます。)

2016年2月27日土曜日

キューバ旅行振り返り(9)~ バラデロ→コヒマル→ハバナ空港

1月28日(木)はいよいよキューバ最後の日になりました。朝8時半頃にバラデロのホテル・メリア・マリナ・バラデロを出発しました。前の日に泊まった、キューバ随一のリゾート地、バラデロは一泊で通り過ぎるのは勿体ない所でした。ドイツ人の観光客はここに来たら普通1週間以上は泊まっていくそうです。やはり、こういう所は海にも浸かって、ゆっくりして行きたい場所。しかし、我々のキューバ7日間ツアーでは駆け足になるのはやむを得ません。

<バラデロを出発し、マタンサス付近 2016年1月28日09:30>

バラデロからハバナに向かう道路は大西洋の海岸に近い所を走ります。

<バクナヤグア橋 2016年1月28日09:53>

我々の貸切り観光バスは1時間ちょっと走って、バクナヤグア橋に着きました。この橋は、ハバナとマタンサス州の境に位置する、全長8kmのユムリ渓谷に架かっています。全長313mはキューバ最長で、地上からの高さは112mあるそうです。

<客待ちするクラシックカーのタクシー 2016年1月28日09:58>

バクナヤグア橋の駐車場にもたくさんのクラシックカーが停まっていました。クラシックカーは観光用のタクシーとしてだけではなく、都会でも地方の農村でも、生活の足として普通に使われています。タクシー用のクラシックカーは大概は写真(上、下)のようにきれいに塗装し直されています。しかし、一般に生活の足として使われているクラシックカーは塗装が剥げ、金属部分は錆びて、くたびれた感じのものが多いです。

<クラシックカー@バクナヤグア橋の駐車場 2016年1月28日>

キューバは1959年の革命後、米国と対立し、1962年からは経済封鎖され、自動車が新しく入ってこなくなりました。そのため、キューバ国民はそれ以前にキューバにあった、1940~50年代の米国車を修理し、メンテナンスしながら未だに乗り続けてきています。現地人ガイドのオスワルドさんは「クラシックカーの中は部品の万国博覧会だ」と言っていました。つまり、中国製、韓国製、日産などの日本製等、いろいろな国の部品を使って付け替えられ、メンテナンスされてきているそうです。1940~50年代の米国車は排気量が大きく、燃費効率が悪くて、ガソリンを食うために、エンジンそのものをディーゼルエンジンに取り換えられている車もあるそうです。

しかし、そんなクラシックカーも、キューバのハイウェイでは最近の自動車と一緒になってガンガン走っていいるから、びっくりしてしまいます。

<バクナヤグア橋で演奏するライブバンド 2016年1月28日09:53>

バクナヤグア橋でもバンドが演奏をしていました(上の写真)。キューバでは、レストランやバーをはじめ、主だった観光地など、人の集まりそうな所では必ずと言っていいくらいライブバンドが演奏をしていました。収入を得たいということは勿論あるのでしょうが、それ以前に、やはりキューバ人は音楽好きなのだろうと思います。そして、人気レストランで演奏しているようなバンドは音楽レベルも高いと思われました。

私の好きなクラシックギターの世界でも、キューバにはレオ・ブローウェル(Leo Brouwer;1939年~)とレイ・ゲーラ(Rey Guerra;1958年~)という二人の著名なギタリスト兼作曲家がいます。

<火力発電所/コヒマルへ向かう途中 2016年1月28日10:27>

さて、次の目的地、コヒマルに向けてバスは走ると、途中、火力発電所が見えました。
その先の海岸には油田が点々と見えました(下の写真)。この辺りでは石油が産出されていますが、キューバの消費量を賄うのには到底足りず、石油は大幅に輸入に頼っています。
なお、キューバの鉱物資源としてはニッケルがあり、ニッケルはキューバの輸出総額の10%を占めているそうです。

<海岸の油田/コヒマル近く 2016年1月28日10:37>

11時頃にはコヒマル(Cojimar)に到着しました。ここからハバナ市街まではわずか7km、車で15分程度です。

<コヒマルの漁村 2016年1月28日11:07>

文豪、アーネスト・ヘミングウェイ(1899年~1961年)の愛艇「ピラール号」は当時、コヒマルの港に繋がれていて、ハバナの閑静な住宅地、San Francisco de Paulaの家からここにやって来て、ピラール号に乗って、ヘミングウェイは釣りに出掛けていたそうです。

<愛艇「ピラール号」のヘミングウェイ 1950年 (Wikipedia英語版より)>

彼は、ここに住む漁師をモデルにした小説、老人と海』が大きく評価され、1954年にノーベル文学賞を受賞しました。

<コヒマルの要塞(右)とヘミングウェイの胸像(左) 2016年1月28日11:09>

コヒマルの港には17世紀に建てられた要塞があり、その隣にヘミングウェイの胸像があります。この胸像はヘミングウェイが1961年に自殺した後、地元の漁師たちが自分のボートのスクリューなど材料を出し合って彫刻家に作ってもらったものです(下の写真)。

<ヘミングウェイの胸像@コヒマル 2016年1月28日>

そして、我々の昼食はこの港にあるレストラン「ラ・テラサ」でとりました。ヘミングウェイはコヒマルに来るたびにこの店に寄り、カクテルを飲んだり、昼食を食べていたとの事です。

<レストラン「ラ・テラサ」@コヒマル 2016年1月28日>

「ラ・テラサ」の壁にはヘミングウェイと、その関係者の写真がたくさん飾られています。その中に、ヘミングウェイとフィデル・カストロ前議長との写真もあります(下)。これは有名な1960年5月の釣りの大会「ヘミングウェイ・カップ」でカストロが個人優勝した時のものです。

<レストラン「ラ・テラサ」の壁に架かるヘミングウェイとカストロの写真>

実は、ヘミングウェイはバティスタ独裁政権の腐敗に反発し、カストロの革命運動を密かに支援し、1947年には2万ドルの資金提供をしています。これは外国人としては最も多額な援助でした。ヘミングウェイとカストロが実際に会ったのは上記釣り大会の時、一回だけだったようですが、互いに共鳴していたと考えられます。
このため、米国CIAはヘミングウェイを監視し、圧力をかけていたと言われます。

この後、1960年7月にヘミングウェイは米国に帰国し、1961年7月にアイダホ州の自宅で猟銃で自ら命を絶ちました。

<レストラン「ラ・テラサ」の店内とライブ演奏 2016年1月28日11:59>

レストラン「ラ・テラサ」は12時頃になると、観光客でほぼ満員状態になりました。
ここでも、またバンドが演奏をしていました。

<ダイキリ@レストラン「ラ・テラサ」 2016年1月28日>

私はまずホワイト・ラムを使ったカクテル、「ダイキリ」を飲み、漁師のスープ、キューバ風パエリアと魚の盛合せを食べました。

<キューバ風パエリアと魚料理@レストラン「ラ・テラサ」>

ここがキューバでの最後のレストランになりましたが、キューバのレストランは全てまずまず美味しかったです。(キューバの一般の人たちが日常どのようなものを食べているかは分かりませんが。)

<ハバナ近郊にあるスタジアム 2016年1月28日12:23>

昼食後、いよいよハバナの国際空港に向かいます。
ハバナ近郊に入ると、ハイウェイ沿いに大きな立派なスタジアムがありました。

<ハバナ空港に向かう途中の道路 2016年1月28日12:47>

我々の観光バスは旅行中、主にハイウェイを使って移動しました。
キューバのハイウェイは片側3~4車線ですが、上の写真では中央分離帯がありますが、中央分離帯がないハイウェイもあり、また、レーン・マーク(白線)が剥げて、消えている所もあります。その上、道路照明が一切ないので、夜間ハイウェイを運転するのは相当緊張する、と現地人ガイドは言っていました。

キューバのハイウェイは無料なのは良いのですが、基本的に道路には囲いがなく、自動車専用道路にはなっておらず、次のものが一緒に走り、通行しています。
  ①自動車
  ②バイク
  ③自転車
  ④トラクター
  ⑤馬車
  ⑥人間

ちょっと地方に行くと、ハイウェイに結構の数の馬車が平気で走っているのには驚きました。事故が起きないのか、心配になります。

そして、我々は予定通り、午後1時過ぎにはハバナのホセ・マルティ国際空港に着きました。

2016年2月24日水曜日

キューバ旅行振り返り(8)~ バラデロ

1月27日(水)、サンタクララで昼食をとった後、再び貸し切り観光バスに乗って、約150km北西のバラデロに向かいました。
途中、ハイウェイ沿いには牧場や畑が延々と続きます。

<サンタクララからバラデロに向かう途中/ハイウェイ沿いの牧場 2016年1月27日13:39>

4時過ぎに我々はキューバ最大のリゾート、バラデロ(Varadero)に到着しました。
バラデロは大西洋の中に、北東に向かって細長い角のように伸びた半島で、浜辺の長さは28kmに及び白砂と透明な海が美しい、人気のビーチです。

1930年頃にはアメリカの億万長者、デュポンをはじめ多くのアメリカの金持ちがここバラデロに豪華な別荘を建てていました。1959年のキューバ革命で大方の金持ちはマイアミなどに逃げ、それらは国有化されて、現在はその多くはホテルやレストランになっています。

<ホテル・メリア・マリナ・バラデロ 2016年1月27日17:17>

泊まったのは半島の中でも最先端の位置にある、ホテル・メリア・マリナ・バラデロ(Melia Marina Varadero)です。
我々の部屋は北東の大西洋側に面していて、目の前にホテルのプールと、そのすぐ向こうには大西洋が眺められました(下の写真)。

<宿泊した部屋から見たプールと、向こうに大西洋に面したビーチ 2016年1月27日>

このホテルは大きくて、比較的新しく、バスルームにはゆったりしたバスタブも付いていて、設備も良かったです。現地人ガイドやバスの運転手も、ここはバラデロの中でも良いホテルだ、と言っていました。

<ホテル・メリア・マリナ・バラデロの宿泊した部屋 2016年1月27日16:43>

ホテルの南側のすぐ前にはヨットのマリーナがあって、たくさんの洒落たヨットが係留されていました。

<ホテル・メリア・マリナ・バラデロの前のヨット・マリーナ 2016年1月27日17:00>

夕食前まで時間があったので、ホテル前の大西洋側のビーチを散歩しました。白い細かな砂浜に青いきれいな海が繋がっていました。

<ホテル・メリア・マリナ・バラデロの前の大西洋に面したビーチ 2016年1月27日17:38>

ここを見ていて、およそ20年前に、ニューヨーク駐在時代に、家族でクリスマス休暇で訪れたバルバドス(Barbados)や、Thanksgiving休暇で訪れたグランドケイマン(Grand Cayman)のビーチを思い出しました。どちらもカリブ海の中にあり、ここに似た美しい青い海と静かな白いきめ細かな砂浜で、気持ちの良いビーチでした。

このホテルは「all-inclusive」のシステムで、ホテルの敷地内では食べ放題、アルコールも飲み放題で、全てのアクティビティが料金に含まれています。

<バラデロのホテル前のビーチ@ヒカコス半島(全長28km)の先端付近 1月27日17:35>

ところで、このホテルで初めてインターネットを利用しました。キューバで泊まった3か所のホテルでは全てロビーでインターネットWi-Fiが利用可でした。しかし、前のホテルではネット・スピードが遅いと聞いていたので、このホテルで利用しました。Wi-Fiは有料で、料金はどのホテルも同じで、1時間2ペソ(CUC)(=約240円)です。持って行ったタブレット(iPad mini)を使いましたが、ネット・スピードは特に支障はありませんでした。中国ではインターネット利用に制限がかかっていて、FaceBookは閲覧できず、Google検索も使えないと聞いています。しかし、ここではFaceBookなどSNSは問題なく閲覧でき、Googleも普通に使えました。キューバではインターネット利用に制限はしていないようです。

キューバ国民にとってはインターネットが利用できる場所はまだ少ないとの事ですが、今インターネットは急速に普及し始めているそうです。また、ハバナのような都会ではスマホやタブレットを持つ人が増え始めているようです。

また、宿泊した3か所のホテルでは、どこでも部屋のテレビでCNNやNBCなどのアメリカのテレビ・チャネルを普通に見ることができました。キューバではテレビの視聴にも特別な制限はかけていないようです。

<朝のヨット・マリーナ@ホテル・メリア・マリナ・バラデロ前 2016年1月28日07:12>

キューバには、ここのような素晴らしいリゾート地と共に、面積は日本の本州の半分程度でありながら、8つのユネスコ世界遺産があり、観光は現在のキューバの重要な産業になっています。

1959年の革命後、社会主義国化を進めたキューバに対し、アメリカは経済封鎖を行い、そのためキューバはソ連との関係を深め、ソ連への経済依存度は高まりました。しかし、1991年のソ連崩壊により、、それまでキューバ産砂糖とソ連製石油をバーターで取引してきたキューバは大打撃を受け、キューバは極度の物不足に陥りました。これを克服するために、力を注いできた観光産業は今や大きく実を結び、キューバ経済の大きなウェートを占めるまでになりました。

我々のJTBツアーも2ヶ月前には既に「満席、募集締め切り」となっていましたが、実際の参加者は15人と、最低催行人数のままでした。聞くところによると、参加希望者は多かったが、ホテルの部屋が取れなかったので、15人で募集を打ち切ったとの事でした。
米国とキューバは大使館を開いて、国交は回復したというものの、現時点では米国からキューバへの定期便は飛んでおらず、また、観光旅行も認められていません。米国人がキューバに旅行するためには、研修とか文化交流の名目が必要です。それでもキューバの観光地は、ドイツなどヨーロッパ各国やカナダからの観光客で既にいっぱいでした。ハバナや主要な町のホテルは今でも満杯のところが多く、予約が取りにくいようです。

今月17日の新聞報道によると、米国・キューバ両国間で定期便、1日110便(ハバナ20便、その他9都市各10便)を年内に就航開始することが決まりました。定期航空便就航は55年ぶりとの事。定期便が始まれば、米国から多くの人々がキューバに訪れるのは必定です。そうなると、ますますキューバのホテルは取りにくくなるでしょう。ツアーの間我々を案内してくれた、日本語ペラペラの現地人ガイド、オスワルドさんは、「今後アメリカ人の来訪客が急速に増えると、日本の旅行会社はホテルを予約するのが更に難しくなり、ツアーが組めなくなるのではないか。そうなると、日本語ガイドとしての自分の仕事が急減してしまうのではないか。」と心配していました。

2016年2月22日月曜日

キューバ旅行振り返り(7)~ トリニダー→サンタクララ

1月27日(水)は朝8時過ぎにトリニダーを発って、貸し切り観光バスに乗って88km南にあるサンタクララ(Santa Clara)に向かいました。

<トリニダーからサンタクララに行く途中の農家 2016年1月27日09:30>

道路沿いには牧場や畑の広がる景色が続きます。
途中の農家には馬が繋がれていたり(上の写真)、村には馬車が走っています(下の写真)。
キューバでは自動車の入手は難しいようで、いまだに馬が移動手段、動力として、普通の町でも田舎でも使われています。馬車の上に荷物や人々を運んだり、あるいは、カウボーイのように馬に人がまたがって移動しているのは、どこにでも見かけられました。

<トリニダーからサンタクララに行く途中の村 2016年1月27日09:44>

また、農村では牛に曳かせて畑を耕しているのがあちこちで見られました。トラクターも少しはありましたが、みな古くなっていて、数が足りないようで、いまだに農耕の動力として牛が普通に使われていました。これでは、キューバの農業の生産性は、日本と比べたら相当低いだろうなと推測されました。

<チェ・ゲバラ霊廟前の広場 2016年1月27日11:23>

2時間ちょっとでサンタクララ(Santa Clara)の町にあるチェ・ゲバラ霊廟に着きました。

ゲバラは1967年にボリビアでボリビア政府軍との戦闘で捕らえられ、翌日射殺されました。1987年に没後20年を記念して、ゲバラの銅像と、同じく戦闘で亡くなった38人の慰霊を込めて38の石を安置した霊廟が、革命戦争勝利の突破口となったこの地、サンタクララに建てられました。


          <チェ・ゲバラ霊廟@サンタクララ 2016年1月27日11:17>

エルネスト・チェ・ゲバラ(Ernest Che Guevara)は1928年にアルゼンチンの比較的裕福な家庭に生まれ、ブエノスアイレス大学医学部に入学後、オートバイで南アメリカ各国を旅行。医師免許取得後も南米各地を放浪し、1956年にメキシコで亡命中のフィデロ・カストロ、弟のラウル・カストロと出会い意気投合しました。キューバ反独裁闘争に賛同し、同年12月にヨット・グランマ号でキューバに上陸。以後25ヶ月間におよぶゲリラ戦に従軍し、1959年バティスタ政権を倒し、キューバ革命を成功させました

ゲバラは革命政権で要職を歴任した後、1965年にはカストロに別れを告げて、他の貧困国の革命闘争に向け旅立ちました。しかし、その2年後、上述のようにボリビアで逮捕、処刑され、39才の生涯を終えました

霊廟中央のゲバラの銅像は6mを超えるもので、その台座にはゲバラの名言、「Hasta la Victoria Siempre」(常に勝利に向かって)が書かれています(下の写真)。

<チェ・ゲバラの銅像@チェ・ゲバラ霊廟 2016年1月27日11:16>

歴史を振り返れば、革命前のキューバは、当時のバティスタ大統領による独裁で、腐敗、弾圧が続き、バティスタ政権とアメリカ政府、アメリカ企業、アメリカ・マフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土へ流れるような社会構造になっていました。キューバ国民は食べるものすらない差別社会だったとの事。このような歴史を知れば、キューバの革命は歴史の必然だったと私には思われます。

エルネスト・チェ・ゲバラ>

ところで、キューバ旅行中にゲバラの肖像や絵はあちこちで見かけ、ゲバラを描いたTシャツはキューバ各地で売られていました。しかし、キューバ革命を主導し、革命を成功させ、その後約50年にもわたって最高指導者の地位にあったフィデル・カストロについては肖像も絵も一切キューバでは目にしませんでした。
その理由は、カストロは 他の独裁国家の指導者とは違って、自分が美化されたり、賛美されることを嫌い、公共の場におけるプロパガンダは一切許さないからだそうです。キューバでは特定の政治的指導者を偶像化するのを避けるために、存命中の人物のモニュメントを公共の場所に飾ることを禁止する法律が制定されているそうです。フィデル・カストロには、権力を私物化しようとする傾向の強い他の社会主義国の権力者とは一線を画し、かなりクリーンな面があると思えます。


<若き日のフィデル・カストロ(右)とチェ・ゲバラ(左)>

数年前に、フィデロ・カストロが引退し、実弟のラウロ・カストロに政権を移譲するとの報道を聞いた時には、他の社会主義国にもよくある、「ファミリー内での権力の私物化か」と私は思いました。しかし、もう少し詳しく知ると、ラウルに委譲したのは、彼が血族であったからではなく、長年ともに戦ってきた同士であり、カストロの考え、政治信条を最も理解していたからで、また、過去の度重なる戦闘で中心的仲間の大半を失って、ラウル以外に人材がいなかった、と言うのが本当のようです。

実際、フィデロ・カストロには4男1女がいるとされますが、娘は米国に亡命し、4人の息子で政治的に高い地位に就いている人は誰もいないとの事です。

キューバを旅行していて、キューバには社会主義国や独裁国家にありがちな陰湿な面や、抑圧された面が感じられず、人々はおおらかな感じでした。これには、もちろんキューバの風土、気候の影響もあるとは思いますが、カストロのこのような私利私欲のない個性がある程度は影響しているのだろうと私には思われました。


<ホテル Los Cneyes の敷地内 2016年1月27日11:47>

さて、この日の昼食は、チェ・ゲバラ霊廟のすぐ近くのHotel Los Caneyes に行きました。このホテルの居住棟は原住民の住居を模したという、日本で言えば茅葺屋根のようなコテージで、施設内にはたくさんのコテージが点在していました。

<ホテル Los Caneyes 内のレストラン@サンタクララ 2016年1月27日11:47>

我々はホテル内のレストラン棟に入って、昼食をとりました。バイキング形式でしたが、なかなか美味しかったです。我々以外のレストランのお客は大部分がヨーロッパからと思われる団体ツアー客でした。

さて、昼食をとった後は、この日の宿泊地、キューバ最大のマリーン・リゾート、バラデロ(Varadero)に向かいます。

2016年2月19日金曜日

第29回「クラシックギター弾き回し練習会」のご案内



第29回「クラシックギター弾き回し練習会」を5月14日(土)~15日(日)に開催しますので、ご案内します。

5月は例年通り、信州白樺高原、女神湖近くのペンション「優しい時間」を借り切って、泊まり込みにて開催します

詳細は「クラシックギター弾き回し練習会のブログ」に記載してありますので、ご参照ください。→http://hikimawashi.blogspot.jp/2016/02/blog-post_19.html?spref=tw

2016年2月17日水曜日

キューバ旅行振り返り(6)~ シエンフエゴス→トリニダー

1月26日(火)はシエンフエゴスで昼食をとった後、再び貸し切り観光バスに乗って、81km南東のトリニダーに向かいました。

<トリニダー近くの牧場 2016年1月26日14:28>

途中は牧場や畑が続きます。1時間20分位走って、トリニダー(Trinidad)に到着しました。

<トリニダーの石畳の通り 2016年1月26日15:42>

トリニダー(Trinidad)は現在は人口35,000人の町です。16世紀前半に築かれ、近郊にサトウキビのプランテーションができたことにより、作物と奴隷売買の中心地として繁栄し、19世紀中頃の奴隷制度廃止まで続きました。その後は町は静かに衰退し、スペイン植民地時代の古い町並みはそのまま残り、近郊のサトウキビの大規模農園があったロス・インヘニオス渓谷と共に、ユネスコの世界遺産になっています。

トリニダー旧市街の通りは今も昔のままの石畳で、大き目の石がデコボコして、ちょっと歩きにくいです(上の写真)。

<マヨール広場 2016年1月26日>

世界遺産、トリニダーの中心がマヨール広場(上の写真)。かつてはここでサトウキビの取引や奴隷売買が行われていたそうです。

<サンティシマ教会(右)とロマンティコ博物館(左) 2016年1月26日15:37>

マヨール広場東側のサンティシマ教会は1892年建築。その左(上の写真)のロマンティコ博物館は1808年に建てられたもので、サトウキビで大成功した農園主の屋敷だったものです。

<革命博物館/サンティシマ教会付近から見る 2016年1月26日>

上の写真の黄色い塔の建物は、元は1984年に建てられたサン・フランシスコ修道院でしたが、現在は革命博物館になっています。1959年の革命成就前に、バティスタ政権の掃討作戦で命を落とした、カストロ率いる革命軍メンバーの写真や遺品などを中心に展示されています。

<バー「ラ・カンチャンチャラ」外観 2016年1月26日>

そして、我々は近くのバー「ラ・カンチャンチャラ」(La Canchancharai)に入り、ラ・カンチャンチャラを飲みました。ラ・カンチャンチャラは、下の写真の茶色い湯飲み茶わんのような器に入れて出され、サトウキビの蒸留酒でアグラルデンテと言うお酒に、蜂蜜とレモン、水を加えたもの。さわやかな味わいで、おいしかったです。ここでもキューバ音楽のライブ演奏を楽しみました。

バー「ラ・カンチャンチャラ」でラ・カンチャンチャラを飲む 2016年1月26日15:48>

その後、ロス・インヘニオス渓谷を通って、今日の宿泊地である、トリニダーのリゾート、プラヤ・アンコンに向かいました。


<ロス・インヘニオス渓谷 2016年1月26日16:41>

途中で見たロス・インヘニオス渓谷はトリニダーの近郊、およそ12kmに位置し、18世紀末から19世紀にかけての植民地時代には大勢の奴隷を働かせる大規模なサトウキビ農園だった所です。今はサトウキビ畑はここでは一部しか残っていませんが、生産のピーク時には3万人もの黒人奴隷がここで過酷な労働を強いられていたそうです。そんなことがちょっと想像できないような現在は静かな光景でした。

<夕方のホテルの部屋から見たビーチ@トリニダー 2016年1月26日17:40>

夕方、旧市街近郊の、岬のような形になったリゾート、プラヤ・アンコン(Playa Ancon)にある、ホテル・クラブ・アミーゴ・アンコン(Club Amigo Ancon)に到着しました。

<ホテル「クラブ・アミーゴ・アンコン」の部屋@トリニダー 2016年1月26日17:39>

我々の泊まった部屋はこじんまりはしていましたが、シャワーなど設備は問題なく、バルコニーの前には気持ちの良いビーチが広がっていました。

<夕方のホテル「クラブ・アミーゴ・アンコン」のビーチ 2016年1月26日17:59

このホテルは「all-inclusive」でホテル敷地内のどのレストラン、バーでも食べ放題、アルコールもソフトドリンクも飲み放題でした。
夕方ビーチを散歩しましたが、駆け足で、ちょっと泊まるだけでは勿体ないような場所でした。