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2016年10月29日土曜日

北スペイン&ポルトガル旅行振り返り(12):リスボン(二日目~午後・夜)

リスボン二日目、6月13日(月)は宿泊ホテルに近いレストラン「Leao d'Ouro」で昼食をとった後、ホテルに戻り、午後は自由時間となりました。

そこで、我々はリスボン市内のケーブルカーに乗りに行きました。リスボンにはケーブルカーの3つの路線があり、いずれも市内の低い所と高い所を短距離で結びます。リベルダーデ通りに乗り口のあるグロリア線に行きました。宿泊ホテルからは歩いて1kmもありません。

<グロリア線のケーブルカー@フォス宮の横の乗り口 2016年6月13日16:38>

電車が走る距離は500mもありませんから、すぐに終点に着いてしまいますが、これはこれで面白かったです。

<グロリア線のケーブルカーに乗る 2016年6月13日16:42>

到着駅を降りると、すぐ横にサン・ペドロ・アルカンタラ展望台があり、リスボンの街並みが眼下に一望できました。

<サン・ペドロ・アルカンタラ展望台から見るリスボンの街並み 6月13日6月13日16:49>

展望台からはバイシャ地区、アルファマ地区などの旧市街、サン・ジョルジェ城、更に向こうにテージョ川がきれいに眺められました(上の写真)。

<帰りもケーブルカーに乗って下る 6月13日16:59>

帰りもケーブルカーに乗って下り、リベルダーデ通りや広場を見物し、店を覗いたりしながら帰りました。

<レスタウラドーレス広場とオベリスク 6月13日17:11>

途中のリベルダーデ通り南端にはレスタウラドーレス広場があります。レスタウラドーレスとは「復興者たち」という意味だそうです。16世紀末から60年間、ポルトガルはスペインに支配されていましたが、1640年ついに蜂起し、ポルトガルは再独立を勝ち取りました。広場中央には、勝利と独立の精神を表す、高さ30mのオベリスクが建っています(上の写真)。

<バイロ・アルト地区の通り 2016年6月13日20:02>

リスボン最後、そしてこのツアー最後のディナーはバイロ・アルト地区にあるファド・レストラン「O Forcado」です。バイロ・アルト地区はファドハウスやレストラン、バーが多く、どちらかと言えば、リスボンの夜の街です。

<ファ・ドレストラン「O Farcado」正面 2016年6月13日20:03>

O Forcado」(オ・フォルカード)は1967年開業で、「ファドの女王」と呼ばれるアマリア・ロドリゲス(1920年~1999年)が店の名前の名付け親だそうです。

<ファド・レストラン「O Farcado」の店内 2016年6月13日20:35>

ファドは通常、ポルトガルギター1名とクラシックギター1名の伴奏で、1名が歌います。
ファドの語源は「運命」(英語のfate)を意味し、郷愁や哀愁など、人々の様々な心の感情が表現されます。リスボンのファド歌手は大半が女性で、女性の心情を歌った物悲しい曲が多いのに対し、コインブラのファド歌手は男性で、コインブラ大学生が女性に捧げるセレナーデが基になっています。

<ファドのライブ@オ・フォルカード 6月13日20:40>

ファドにとっての重要な楽器であるポルトガルギタースチール弦、12本を張ってあり、6コースの全く同じに調律された複弦です(下の写真)。見たところ、クラシックギターとマンドリンの中間の楽器のようにも見えますが、楽器学的にはギターとの関連性は薄く、おそらくはイングリッシュ・ギターシターンの融合から生まれたと考えられているそうです。
また、ルトガルではポルトガルギターのことをギターラと呼び、クラシックギターをヴィオラと呼んでいます。

           <ポルトガルギターの演奏2016年6月13日22:05>

生で聴いたファドは切々と心の底から歌い上げ、時には魂の叫びのようでもあり、聴いている体に響いてきました。本場のライブを聴くことができて、満足でした。

ところで、この店でのディナーは前菜がタコの天ぷらで、メインはブイヤベースでした。ブイヤベースはいろんな魚介類がたっぷり入っていて、純粋なレストランとして見ても、十分美味しかったです。

タコの天ぷら

ブイヤベース

また、「O Forcado」の店内の壁には絵画やアズレージョ、アマリア・ロドリゲスが来店した時の写真などが飾られていました。
その中でも、壁に描かれた、ポルトガルギター演奏の大きなアズレージョ(タイル絵)はこの店らしくて、雰囲気にぴったりでした。

<レストランの壁に描かれたポルトガルギター演奏のアズレージョ 6月13日>

ファドのライブは午後8時半から午前1時までで、あとになるほど人気歌手が出てくるとの事です。しかし、我々は翌朝のリスボン発のフライトが早いこともあり、ちょっと残念ではありますが、夜10時半頃には店を出ました。

そして、夜11時頃にホテルに戻りました。
翌日、14日(火)朝は、いよいよリスボン発のフライトで帰国の途に就きます。

2016年10月21日金曜日

北スペイン&ポルトガル旅行振り返り(11):リスボン(二日目~昼まで)

リスボンの二日目、6月13日(月)は朝8:45にバイシャ地区のホテル・ムンディアル(Hotel Mundial)をバスで出発し、その東の、テージョ川沿いのアルファマ地区に行きました。ここはリスボンの下町です。

<聖アントニオ教会 2016年6月13日09:07>

まず、アルファマ地区にある聖アントニオ教会を見ました。前日、6月12日(土)夜に我々は聖アントニオ祭の前夜祭パレードを見ましたが、この日は聖アントニオ祭当日なので、教会には大勢の信者が集まっていました。

<聖アントニオ教会のミサ 2016年6月13日09:16>

ちょうど聖アントニオ教会ではミサを執り行っていましたが、大勢の人達で、椅子に座れない人々は後ろで立って祈っていました(上の写真)。

<リスボン・カテドラル(大聖堂)正面 2016年6月13日>

聖アントニオ教会のすぐ東隣にリスボンの大聖堂(カテドラル)があります。このカテドラルは1147年にイスラム礼拝堂跡に、アフォンソ・エンリケスの命によって建てられ、当初は砦の役目もあったらしく、堅固な造りです。1755年のリスボン大地震も生き延びました。元々はロマネスク様式の簡素なカテドラルでした。

<リスボン・カテドラルの祭壇(内陣) 2016年6月13日09:27>

その後、バロック様式の祭壇(上の写真)などが付け加えられ、現在はさまざまな様式が混じり合っています。

さて、次はリスボンの町を離れて、貸し切りバスでユーラシア大陸最西端のロカ岬に向かいます。

<霧に包まれたロカ岬 2016年6月13日10:53>

バスは1時間ほど走ってロカ岬に着きました。着くと、ロカ岬は濃い霧に覆われて、全く見えません。ここは高さ140mの断崖の上で、晴れていれば眼前に大西洋が広がり、”地の果て”を実感できるとの事ですが、何も見えず、天候ばかりはどうしようもありません。

<シントラの街とレプブリカ広場(手前) 2016年6月13日12:49>

ロカ岬の後は再びバスで30分ちょっと東に走って、シントラに着きました。

シントラ(Sintra)は、ポルトガルの首都リスボンの西28kmにあり、ポルトガル王家の避暑地として愛された、風光明媚な山間の町です。その歴史は7~8世紀、イベリア半島に侵入したイスラム教徒のムーア人が城を建設したことに始まり、12世紀に初代ポルトガル王アルフォンソ1世がムーア人から奪回しました。英国の詩人バイロンはこの町を「この世のエデン」と称えています。

<霧のかかるシントラの王宮 2016年6月13日13:00>

我々はレプブリカ広場の前に建つ王宮を見ました。
2本の巨大な煙突が特徴的な王宮は、14世紀にエンリケ航海王子の父ジョアン1世が夏の離宮として建て、16世紀にマヌエル1世が莫大な富をつぎ込み増築しました。内装には高価なアズレージョ(装飾タイル)が多用され、大航海時代の繁栄を偲ばせます。

<シントラ王宮の白鳥の間 2016年6月13日12:09>

宮殿には、「アラブの間」「白鳥の間」「人魚の間」「カササギの間」などの絢爛豪華な部屋があり、いずれの部屋もアズレージョで装飾されています。
中でも「白鳥の間」(上の写真)は宮殿内で最も広く、晩餐会や舞踏会の場となり、1584年に天正遣欧使節団もこの部屋に招かれました。

<レストラン「Leao d'Ouro」正面@リスボン・バイシャ地区 6月13日15:28>

そして、その後は再びリスボンに戻り、宿泊ホテルに近いレストラン「Leao d'Ouro」に入りました。「Leao d'Ouro」は壁や柱にアズレージョの装飾があり、雰囲気の良い、魚介類中心のレストランでした。

<レストラン「Leao d'Ouro」の店内 2016年6月13日15:26>

ランチのメインはタコの雑炊でしたが、これも我々日本人の口に合い、美味しかったです。

海藻の入ったスープ

タコの雑炊

エッグタルト

ランチの後は自由時間となりました。
我々はリスボン市内のケーブルカーに乗りに行きます。


2016年10月5日水曜日

北スペイン&ポルトガル旅行振り返り(10):リスボン(一日目)

6月12日(日)午後3時少し前に貸し切りバスでオビドスを出発し、約1時間でこのツアーの最後の宿泊地、リスボンに到着しました。

リスボンは大西洋に注ぐテージョ川の河口から12km上流に位置し、ヨーロッパ大陸最西端の首都です。リスボンの市域の人口は約55万人ですが、周辺を含めたリスボン都市圏の人口は303万人で、これはポルトガル全人口の約28%を占めています。

<ジェロニモス修道院の南門@リスボン 2016年6月12日16:02>

リスボンでは最初にベレン地区にあるジェロニモス修道院を訪れました。
ジェロニモス修道院は、ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓及び、エンリケ航海王子の偉業を称え、1502年マヌエル1世によって着工され、最終的な完成までに300年ほどかかっています。マヌエル様式の最高傑作ともいわれ、大航海時代の富をつぎ込んで建築されました。とても大きな建物で写真には到底入りきりませんでした(上の写真)。

<ジェロニモス修道院の中庭と回廊 6月12日16:07>

この修道院の見どころの一つは、中庭を囲む55m四方の回廊(Claustro)で、石灰岩を用い、アーチには緻密な彫刻が施されています(上の写真)。

<ジェロニモス修道院の教会 6月12日16:41>

修道院の教会にはヴァスコ・ダ・ガマなどの棺が安置されています。

次に、ジェロニモス修道院のすぐ南のテージョ川に建つベレンの塔まで歩いて見に行きました。
ベレンの塔は16世紀初めマヌエル1世の命により、船の出入りを監視する要塞として建てられたもの。マヌエル様式の優雅なテラスを持つこの塔を、作家、司馬遼太郎は貴婦人がドレスの裾を広げている姿にたとえ、「テージョの公女」と呼んだそうです。

<ベレンの塔@テージョ川 6月12日17:12>

そして、エンリケ航海王子の偉業を記念した「発見のモニュメント」を見た後、午後5時半に我々の宿泊ホテル、バイシャ地区にあるホテル・ムンディアル(Hotel Mundial)に到着しました。
夜、聖アントニオ祭のパレードの見物に出発する午後8時45分までは夕食もフリーで自由時間となりました。

<宿泊したホテル・ムンディアル@リスボン 6月12日19:23>

この日のランチが遅かったこともあり、家内も私もあまりお腹がすいていませんでした。そこで、私がホテルの近くのバルに行って、サンドイッチと飲み物を二人分買ってきて、ホテルの部屋で食べて、簡単に済ませました。さすがにちょっと疲れていたので、聖アントニオ祭見物の出発時間までは部屋で休んでいました。

<ロシオ広場@リスボン、バイシャ地区 6月12日20:58>

さて、8時45分にホテルのロビーに集合し、添乗員さんの案内で聖アントニオ祭のパレード見物に歩いてい出掛けました。パレードが通るリベルダーデ大通りまでは、ホテルからはロシオ広場を通って500mもありません。

聖アントニオ祭は、リスボンの守護聖人“聖アントニオ”を讃える祭りで、毎年6月12日(前夜祭)と13日(聖アントニオ祭当日)に行われます。通りに連なる屋台でイワシを炭で焼いて食べることから、別名“イワシ祭り”と呼ばれます。
祭のクライマックスは、毎年、前夜祭の夜9時頃から深夜まで続くリベルダーデ大通りのパレードだそうです。


<サン・ジョゼ―通り@リスボン 6月12日21:00>

リベルダーデ大通りの一本裏のサン・ジョゼ―通りを歩いて行くと、既に人が一杯です。

<聖アントニオ祭のパレード@リベルダーデ通り 6月12日21:57>

パレードは、予選を通過した20以上ものグループが各テーマに沿ったダンスや演奏を披露しながら練り歩き、コンテストも兼ねて、優勝を競い合います。

<聖アントニオ祭のパレード 6月12日21:57>

後になるほど見ごたえのあるグループが登場するそうですが、我々は団体ツアーなので深夜まで見るわけにはいかず、夜10時まで1時間程見て引き上げました。

<イワシを焼く露天の店@サン・ジョゼ―通り 6月12日22:13>

この祭りは“イワシ祭り”なので、炭焼イワシを食べないで帰るのでは来た甲斐がありません。そこで、帰りに、我々夫婦とツアー仲間の女性二人組の4人は裏通りの屋台に寄って、炭焼イワシと飲み物を買いました。

<炭焼のイワシ@露天の店 6月12日22:13>

生ビールを飲みながら立ち食いしたイワシは、柔らかくて脂がのって、美味しくいただきました。

<帰りのサン・ジョゼ―通り 6月12日22:21>

帰りのサン・ジョゼ―通りは更に人が溢れていました。

2016年10月4日火曜日

北スペイン&ポルトガル旅行振り返り(9):オビドス

6月12日(日)午前12時少し前に貸し切り観光バスで我々はバターリャを出発し、その南にあるオビドス(Obidos)に1時間弱で着きました。

<オビドスのディレイタ通り 2016年6月12日12:43>

オビドスは「谷間の真珠」と呼ばれ、城壁に囲まれた、人口600人ほどの丘の上にある小さな町です。1282年に、オビドスを訪れすっかり魅了されてしまった王妃イザベルに、デニス王が、町をプレゼント。以後19世紀までオビドスは代々ポルトガルの王妃の直轄地となり、今なお中世のままの姿をとどめています。

<サンタ・マリア教会@オビドス 2016年6月12日13:17>

町の中ほどにサンタ・マリア広場があり、その前にサンタ・マリア教会があります。ここは1444年に10歳のアフォンソ5世が、わずか8歳のいとこイザベルと結婚式を挙げた教会です。

<ポサーダ・ド・カステロ@オビドス 6月12日13:05>

町の奥の方に歩くと、ポサーダ・ド・カステロが建っています。このポサーダ古城や修道院などを改装した国営ホテル)は15世紀の城を改装したもので、人気が高いそうです。

<オビドスの街 2016年6月12日13:09>

オビドスでは自由行動の時間があったので、家内と私は町の北奥から城壁に上って、歩き始めました。城壁の上からはオビドスのきれいな町と周りの田園風景が眺められました(上の写真)。しかし、少し歩いて行くと、城壁はかなりの高さがあるのに、フェンスもなく、狭くなってきたので、やめて下に降りました。

<ディレイタ通り@オビドス 6月12日13:19>

自由行動の後、街の中のJosefa Obidos Hotel のレストランに皆で入って、昼食です。

<Josefa Obidos Hotel の入口 6月12日13:34>

昼食のメインはバカリャウ・アブラージュでした。干しダラ(バカリャウ)をすりつぶした、ポルトガル料理ですが、こういう魚料理は日本人の口に合います。

生野菜サラダ

ビール

バカリャウ・アブラージュ

デザート

オビドスの入口の近くには、町につながる長い水道橋が架かっていました。

<オビドスの街に架かる水道橋 6月12日14:48>

そして、午後3時少し前に貸し切りバスでオビドスを出発し、このツアーの最後の宿泊地、リスボンに向かいました。

2016年9月29日木曜日

北スペイン&ポルトガル旅行振り返り(8):ブサコ→バターリャ

6月11日(土)午後6時頃にコインブラを貸し切りバスで出発し、そこから北へ30km程の所にあるこの日の宿泊地、ブサコ(Bussaco)に午後7時頃に到着しました。

ブサコは豊かな自然に恵まれた国立公園で、かつてはカルメル派修道院の土地でした。しかし、ポルトガル最後の国王マヌエル2世がここを気に入り、狩猟のための離宮を建築。ところが、完成直後の1907年に王政が廃止され、王宮としてはほとんど使われませんでした。
現在はこの建物は5つ星のパレス・ホテル・ド・ブサコPalace Hotel do Bussaco)となっています。ここがこの日の宿泊ホテルです。

<パレス・ホテル・ド・ブサコ~宮殿と庭園 2016年6月11日19:41>

夕食の時間は8時半なので、その前にホテルの庭園などを散策しました。美しい広い庭園は良く手入れされ、池には白鳥が泳いでいました。

<パレス・ホテル・ド・ブサコの礼拝堂 6月11日19:56>

王宮(ホテル)の建物の西側には王家のための礼拝堂も付いていました。

<パレス・ホテル・ド・ブサコのエントランスホール 6月11日19:37>

王宮はネオ・マヌエル様式の装飾で飾られ、建物内部には、歴史的な題材のアズレージョや絵画が飾られています。

<2階に通じる大階段のアズレージョ 6月11日19:37>

2階に通じる大階段には、ポルトガルによるセウタ攻略とインド攻略を描いたアズレージョが飾られています(上の写真)。

<パレス・ホテル・ド・ブサコのレストラン 6月11日20:30>

午後8時半からレストランに行き、夕食です。レストランはエキゾチックなウッドフロアとムーア様式の天井が特徴で、João Vazの絵を用いた内装が施されています。ここでは、エリザベス女王とエディンバラ公の昼食会が催されたことがあるそうです。

ディナーは下のようなコース料理で、子豚の丸焼きがメインでした。皮がパリパリとして、美味しかったです。

ほうれん草入り人参クリームスープ

子豚の丸焼き

アーモンドケーキ

カプチーノ

我々が泊まった部屋はこじんまりして、落ち着いてはいましたが、浴室などの設備は古く、テレビもブラウン管のものでした。飛行機で言えば”エコノミークラス”と言ったところでしょう。ホテルのホームページを見ると、スイートルームはもっとゴージャスなようで、当然、世界のお金持ちはスイートルーム以上に泊まるのでしょう。我々は団体ツアーだということを考えれば、この程度の部屋の宿泊でやむを得ません。

<パレス・ホテル・ド・ブサコの宿泊した部屋 6月11日19:32>

翌朝も時間があったのでホテルの庭園や周りを散歩しました。王宮の建物はやはり華麗で威厳がありました。

<パレス・ホテル・ド・ブサコの正面入口 6月12日07:32>

12年前には日本の皇太子もこのホテルに2泊したそうで、その時の皇太子用のディナーのメニューがホテルの廊下に掲示されていました。
こういうホテルに泊まるのもおもしろい経験でした。

さて、12日(日)は朝9時に貸し切りバスでブサコのホテルを出発し南下、10時半にバターリャ(Batalha)に着きました。

<バターリャ修道院外観 2016年6月12日>

バターリャ(Batalha)とはポルトガル語で「戦い」という意味で、この地にはその戦いの勝利を示す巨大な修道院(正式名は「勝利の聖母マリア修道院」)があります。

1385年8月14日、バターリャ近郊で行われたアルジュバロータの戦いで、王位を狙って攻め入ってきたカスティーリャ王国軍をジョアン1世のポルトガル軍が打ち破り、スペインに対するポルトガルの独立を守りました。ジョアン1世はこの歴史に残る勝利を聖母マリアに感謝するために1386年にバターリャ修道院の建設を開始しました。

<バターリャ修道院のポータル(入口) 6月12日10:38>

まず、バターリャ修道院の西側の広場に面しているポータル(入口)から入りました。入口は、アーチ・ヴォールトの形をとっており、そのヴォールトの中には、78の聖像が飾られています。

<バターリャ修道院の身廊(聖堂) 6月12日10:41>

修道院の身廊(聖堂)は高さ32m、奥行き80mあり、正面の10枚のステンドグラスから光が差し込みます。ここは、ポルトガルにおける最初のステンドグラスを備えた教会建築だそうです。

<創設者の礼拝堂とジョアン1世の墓 6月12日10:49>

身廊の右側に創設者の礼拝堂があり、ジョアン1世と王妃フィリパ・デ・ランカスターの棺が置かれ、周囲にはエンリケ航海王子の棺もあり、ここで眠っています。

<王の回廊@バターリャ修道院 6月12日10:54>

次に、ジョアン1世の王の回廊に出ました。15世紀に建設されたもので、マヌエル様式とゴシック様式が上手に融合されています。

<参事会室=無名戦士の墓@バターリャ修道院 6月12日10:57>

王の回廊の奥には参事会室があり、この中には無名戦士の墓が置かれています。この部屋には柱が1本もなく、建設された当時、天井が落ちるのではないかと騒がれたそうです。

<無名戦士の墓(参事会室)衛兵交替式 6月12日10:59>

ここは祖国ポルトガルのために戦ったすべての無名戦士の墓ですが、これを守る二人の衛兵が常に立っています。我々が訪れた時、ちょうど衛兵交替式が行われ、見ることができました(上の動画)。

<王の回廊と中庭@バターリャ修道院 6月12日11:07>

バターリャ修道院を見た後、12時少し前に我々は出発し、更に南のオビドスに向かいました。