2017年3月21日火曜日

天才バリオスはなぜ長い間評価されなかったのか?


パラグアイ出身のギタリスト、アグスティン・バリオス=マンゴレAgustin Barrios Mangore, 1885年~1944年)は多くのクラシックギターの名曲を書き残した天才作曲家でありながら、長い間正当に評価されず、死後30年以上経ってから漸く世界的に評価されるようになりました。なぜ天才バリオスは長い間評価されなかったのか? これはバリオスに関する、私の最初のそして最大の疑問点でした。(→2017年2月17日付記事「長い間評価されなかった天才作曲家、バリオス」をご参照。)


<バリオス 1918年/33歳頃>

私は時間のある時などにバリオスに関する資料を探し、ギター雑誌の特集記事を調べたり、伝記本、Richard D. Stover 著Six Silver Moonbeams: The Life and Times of Agustin Barrios Mangoré(1992年)を読んだり、WEB上で手に入るバリオスに関する小論文を探して目を通したりしました。

それらを整理して、現在私が考える、長い間評価されなかった理由」は次のことになります。

(1)バリオスがきちんとした、定本となる楽譜を残さなかったこと。
(2)バリオスがほとんど中南米のみで活動をしていたこと。
(3)20世紀最大の巨匠、アンドレス・セゴビアがバリオスの音楽を否定し、時に妨害したこと。
(4)有色人種(混血)であるバリオスに対する人種差別。

これらの要素が多かれ少なかれ絡み合っていたと考えられます。

(1)については、バリオス研究の第一人者、Richard D. Stover が、「バリオスに自分の曲を楽譜に残し、出版しようということにもう少しでも関心があったなら、彼は忘れ去られ、一文無しで死を迎えることは無かっただろう。」と述べている通りです。(Six Silberb Moonbeams ~ The Life and Times of Agustin Barrios Mangore』P.177)。バリオスが自分の作品を楽譜として残し、出版しなかったことは、彼が正当に評価されなかった非常に大きな要素だったと考えられます。この点については、別途詳しく考察したいと思います。

(2)ほとんど中南米のみで活動をしていたこと。
バリオスは1885年5月5日にパラグァイで生れ、1944年8月7日にエルサルバドルで亡くなるまで、1回だけ渡欧したことを除いては、米国に渡ることもなく、中南米のみを転々として暮らし、演奏活動をしていました。 バリオスは1934年9月(49歳)から1936年2月(50歳)までの期間、一度だけヨーロッパを旅行しましたが、音楽家としてはあまりに遅かったと言えます。
当然、当時のクラシック音楽の中心はヨーロッパであり、中南米だけで活動していたのでは、世界に知られることは難しかったと考えられます。

<ハバナに上陸する直前・Salomoni氏家族と~左から4人目が
バリオス/ヨーロッパへ向かう途上  1934年>

(3)アンドレス・セゴビアによる否定、時に妨害については大きな、広範にわたる問題であり、また、これについては諸説があります。従って、この問題は別途詳しく考察したいと考えます。

(4)有色人種(混血)であるバリオスに対する人種差別。
月刊誌「現代ギター」1981年12月号の特集記事『幻の巨匠バリオス』(P.22)の中で、ヘスス・ベニーテスは次のような趣旨の話をしています。・・・・・バリオスは渡欧中の1935年にセゴビアから招かれて、スペインからイギリスに渡り、ロンドンでリサイタルを行い、当初は好評だったにもかかわらず、それを見たセゴビアは一転、その後のコンサートを妨害し、その後の公演は打ち切られ、バリオスはロンドンを離れざるを得なかった(Poran注→セゴビアはバリオスの才能、実力を恐れたものと推察される)。そう言うこともあり、結果としてバリオスはイギリスで成功を収めることができなかった。また、バリオスという人は大男で、いかつい顔をして、目は緑色だったそうだ。スペイン人とパラグアイのグァラニー族インディオとの混血だった。だからこそ、“マンゴレ”(インディオの酋長の名前)と自ら名乗ったりもした。 イギリスで彼が成功できなかったのは、メスティソ(混血)であるがゆえの人種差別も一因だった。メスティソが白人のセゴビアより上手に弾くなどということをイギリス人たちは認めたがらなかったのだ・・・・・。

また、1934年9月から1936年2月までの渡欧中にバリオスはドイツ、ベルリンのアパートに約15か月間にわたって滞在しました。しかし、その間、彼は一度もコンサートを開催することができませんでした。この事情についてRichard D. Stover はその著書『Six Silberb Moonbeams ~ 』(P.152)の中で次のように述べています。「何らかの理由で、コンサートを開くための興行主とのコネクションを作ることができなかった。多分、ドイツの主催者側に若干の人種差別があったのである。」

当時のヨーロッパは当然、白人中心の社会であったので、インディオとの混血だったバリオスに対する人種差別や偏見はあり得ることだったと考えられます。

<パラグアイの女性ギタリスト、ベルタ・ロハス(Berta Rojas、1966年~ 
が演奏するバリオス作曲「郷愁のショーロ」>

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