パラグアイ出身のギタリスト、アグスティン・バリオス=マンゴレ(Agustin Barrios Mangore, 1885年~1944年)は多くのクラシックギターの名曲を書き残した天才作曲家でありながら、長い間正当に評価されませんでしたが、その大きな理由の一つが「バリオスがきちんとした、定本となる楽譜を残さなかったこと」だと私は考えています。
それでは、なぜバリオスは定本となるべき、きちんとした楽譜を残さなかったのでしょうか?
Barrios in Rosario, Argentina, 1923年(38歳頃)
これまで私が調べたところで、この疑問点に対する回答、理由は主に次の二つだと考えます。
・理由(1)~ バリオスの性格的なものによる。つまり、バリオスは金銭欲、物欲が乏しい人間で、音楽、ギターでビジネスをしようとか、金を儲けようという気は全くなかった。だから、自分の曲を楽譜として出版することにバリオスはあまり関心がなかった。
・理由(2)~ バリオスは即興演奏を重視し、天性の即興演奏家だった。ひらめきで作曲し、ひらめきで演奏した。自分の作曲した曲をその後自分でどんどん改訂し、変えて弾いていた。つまり、楽譜はあまり重視していなかった。
まず、理由(1)について詳しく見てみましょう。
バリオス研究の第一人者、Richard D. Stoverは、その著書『Six Silberb Moonbeams ~ The Life and Times of Agustin Barrios Mangore』の中で次のように述べています(P.177)。
・・・・・「バリオスは自分の芸術でビジネスをしようと言う気は殆ど無かった。プロ音楽家としてのビジネスの観念が彼には不思議なくらい薄かった。バリオスに自分の曲を楽譜に残し、出版しようと言うことにもう少しでも関心があったなら、彼は忘れ去られ、一文無しで死を迎えることは無かっただろう。」
同書の別のところでは次のようにStoverは述べています(P.192)。
・・・・・「バリオスはその欲のない性格の故に、自分が愛する人々(そして、相手もバリオスを愛した)に、彼が作曲した楽譜、作った詩、描いた素描画、つまり彼の芸術作品を惜しげもなく、繰り返し与えていた。バリオスが作曲した曲の中で、現在まで楽譜が残っているのは約100曲であり、彼の生涯において正式に楽譜として出版されたのはわずか10曲程である。 ~ ~ ~ バリオスは自分の曲などの創作物を、感謝のしるしとして(ある期間、誰かの家に宿泊させてもらったことのへの代価など)、あるいは何かとの交換として、与えることができるものだと考えていた。」
次に、理由(2)を考えてみます。
シーラ・ゴドイは月刊誌「現代ギター」1981年12月号の特集記事『幻の巨匠バリオス』の中で次のように述べています。
・・・・・バリオスは即興演奏の達人で、ほとんど毎日のように曲を作り出していたといいます。霊感の豊かさを告げるエピソードとしては《シヨーロ・ダ・サウダーデ(郷愁のショーロ、あるいは悲しみのショーロ)》の誕生にまつわる話があります。この曲は1919年11月6日、リオ・デ・ジャネイロのイタマラティ宮殿というところで催された演奏会で初演されています。《ショーロ・デ・サウダーデ》はその2日前に着想され、たった1日で書きあげられた作品なのです。もっと大部な作品の場合でも、彼はいつも非常な速さで書き上げたといいます 。・・・・・
また、Richard D. Stover著『Six Silber Moonbeams ~』によれば(P.205)、バリオスが晩年、エルサルバドルでギター科教授をしていた時の弟子の一人であった Jose Candido Morales は次のように語っています。
・・・・・ バリオスがコンサートで自作曲を即興で変えて弾くのを私は何回も聴いたことがある。コンサートの後で、なぜ曲を変えて弾いたのかとバリオスは質問され、『なぜって、それはインスピレーションが私を襲って、自分がコンサートで弾いているのだということを忘れてしまったからだよ』と彼は答えた。
また、Stoverは同書の中で次のようにも述べています(P.83)。
・・・・・ 疑いもなく、バリオスにとって"音楽"とは紙に書き残されたものではないのである。"音楽"は神秘的な行為であり、生きていることそのものであり、生きている方向付けであり、人間同士を関連付ける鍵であった。そして、このことは、全てを書き残すことへの配慮の欠如に繋がり、また、自分の作品を始終即興演奏し、常に改定していこうとする彼の趣向に結びつく。バリオスはロマンチストであり、また、自分の人生を"真の芸術"への奉仕の巡礼の道だとみなしていた。"今生きていること"の意味についてのバリオスの価値観と見解は、"今の瞬間を生き、そして、将来のために(曲を)理論化することには多くを費やさない"という彼の生き方になったのである。バリオスは極度に情緒的で、繊細な感覚であり、そして、禅の思想が教えるように、生来、"常に今のみに生きる"人間であった。・・・・・
現在においても、例えば、バリオスの書いた名曲の一つ「ワルツ第3番」の例で見ても、2人の巨匠、ジョン・ウイリアムズとディヴィッド・ラッセル(上の動画)の演奏する「ワルツ第3番」は楽譜がかなり違っており、また、最近出版された日本のギタリスト鈴木大介編纂の楽譜や、最初の頃に出版されたヘスス・ベニーテス編纂の楽譜も、みんな少しずつ違っています。こういう状況は、バリオスの代表作の一つ「大聖堂」や他の曲でも、多かれ少なかれ起きており、こんなにバラバラな楽譜が出回っている、現代の作曲家は他にいないのではないでしょうか。・・・・・バリオスは即興演奏の達人で、ほとんど毎日のように曲を作り出していたといいます。霊感の豊かさを告げるエピソードとしては《シヨーロ・ダ・サウダーデ(郷愁のショーロ、あるいは悲しみのショーロ)》の誕生にまつわる話があります。この曲は1919年11月6日、リオ・デ・ジャネイロのイタマラティ宮殿というところで催された演奏会で初演されています。《ショーロ・デ・サウダーデ》はその2日前に着想され、たった1日で書きあげられた作品なのです。もっと大部な作品の場合でも、彼はいつも非常な速さで書き上げたといいます 。・・・・・
また、Richard D. Stover著『Six Silber Moonbeams ~』によれば(P.205)、バリオスが晩年、エルサルバドルでギター科教授をしていた時の弟子の一人であった Jose Candido Morales は次のように語っています。
・・・・・ バリオスがコンサートで自作曲を即興で変えて弾くのを私は何回も聴いたことがある。コンサートの後で、なぜ曲を変えて弾いたのかとバリオスは質問され、『なぜって、それはインスピレーションが私を襲って、自分がコンサートで弾いているのだということを忘れてしまったからだよ』と彼は答えた。
また、Stoverは同書の中で次のようにも述べています(P.83)。
・・・・・ 疑いもなく、バリオスにとって"音楽"とは紙に書き残されたものではないのである。"音楽"は神秘的な行為であり、生きていることそのものであり、生きている方向付けであり、人間同士を関連付ける鍵であった。そして、このことは、全てを書き残すことへの配慮の欠如に繋がり、また、自分の作品を始終即興演奏し、常に改定していこうとする彼の趣向に結びつく。バリオスはロマンチストであり、また、自分の人生を"真の芸術"への奉仕の巡礼の道だとみなしていた。"今生きていること"の意味についてのバリオスの価値観と見解は、"今の瞬間を生き、そして、将来のために(曲を)理論化することには多くを費やさない"という彼の生き方になったのである。バリオスは極度に情緒的で、繊細な感覚であり、そして、禅の思想が教えるように、生来、"常に今のみに生きる"人間であった。・・・・・
<ディヴィッド・ラッセルが演奏するバリオス作曲「ワルツ第3番」>
<A. バリオス研究ノート No.5>
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A. バリオス研究ノート No.1 → 「長い間評価されなかった天才作曲家、バリオス」
A. バリオス研究ノート No.2 → 「月刊誌『現代ギター』1981年12月号<特集・幻の巨匠バリオス>」
A. バリオス研究ノート No.3 →「バリオス伝記本『Six Silver Moonbeams: The Life and Times of Agustin Barrios Mangoré』」
A. バリオス研究ノート No.4 →「天才バリオスはなぜ長い間評価されなかったのか?」
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