2017年4月29日土曜日

区画割りの済んだ畑

家内と一緒に25日間オーストラリアを旅行し、一昨日、4月27日(木)に帰国、蓼科の家に戻ってきました。

私が毎年野菜作りをする会員制農園「めぐみファーム」の畑の様子が気になっていたので、昨日午後に早速、畑を見に行ってきました。既に「めぐみファーム」の敷地には区画毎に縄を張って、きれいに区画割りがされていました。

<区画割りの済んだ「めぐみファーム」 2017年4月28日15:52>

この区画割り作業は会員など有志によって毎年4月下旬に行われ、私も例年は参加するのですが、今年は海外旅行中だったため参加できませんでした。

めぐみファームの1区画は9m×6m=54m²で、会員は原則1区画、1.5区画、又は2区画の中から希望の広さを選びます。私自身は今年も2区画(108m²)使用です。今時点では今年度のめぐみファームの会員数は19名。

いよいよこれから今年の畑作業がスタートです。

2017年4月2日日曜日

4月の雪景色

一昨日、3月31日(金)朝から降っていた雪は、弱い雪でしたが、昨日、4月1日(土)午後遅くまで降り続いていました。
今朝はようやくきれいに晴れ、この二日間で25cm位の積雪です。

<家の前の道路と向こうに蓼科山 2017年4月2日08:29>

4月とは思えない、きれいな雪景色になりました。

<我が家の北東側の庭と物置小屋 2017年4月2日08:23>

家の窓から見る、庭のカラマツの木々は枝が白い雪で覆われて、真冬と間違えるような光景(上の写真)。

 <散歩道と向こうに見える北横岳 2017年4月2日09:13>

朝、ランディと散歩に出掛けると、除雪された雪が道の両側に高い壁を作っています。

<雪道のランディ 2017年4月2日09:14>

今朝はマイナス9度とこの時期にしては冷え込みましたが、これから昼間は気温が上がってきますので、数日もすれば高原の雪はどんどん溶けてゆくことでしょう。

2017年3月28日火曜日

第33回クラシックギター弾き回し練習会の開催/レポート


3月25日(土)に諏訪IC近くの築100年の古民家ホール、音ギャラリー「風我」にて第33回「クラシックギター弾き回し練習会」を開催しましたが、そのレポート記事を「クラシックギター弾き回し練習会のブログ」に掲載しました。

こちらをご覧ください。→http://hikimawashi.blogspot.jp/2017/03/blog-post_27.html

2017年3月27日月曜日

春の大雪

昨日、26日(日)は朝起きた時から雪が降っていて、夜まで降り続きました。
今朝起きてみると、新しく25cmほど積もっていました。
一日で25cmの積雪は蓼科高原としては大雪になります。しかも、3月下旬でこんなに積もるのは非常にめずらしいです。

<庭の雪 2017年3月27日15:08>

ランディもこんなに深い新雪では、歩くと足がズブズブしてお腹に雪が付いてしまいます。そこでランディが歩きやすいように、ベランダの前を少し雪掻きしてやりました(上の写真)。

<雪を冠った物置小屋 2017年3月27日14:05>

物置小屋の屋根の上も雪が厚くなって、重そうです。

<雪の散歩道 2017年3月27日15:43>

ランディとの午後の散歩の時間には、除雪車が既に雪掻きを済ませていて、除雪された雪が道の両脇に高い壁を作っていました(上の写真)。

2017年3月24日金曜日

天才バリオスはなぜきちんとした楽譜を残さなかったのか?


パラグアイ出身のギタリスト、アグスティン・バリオス=マンゴレAgustin Barrios Mangore, 1885年~1944年)は多くのクラシックギターの名曲を書き残した天才作曲家でありながら、長い間正当に評価されませんでしたが、その大きな理由の一つが「バリオスがきちんとした、定本となる楽譜を残さなかったこと」だと私は考えています。
それでは、なぜバリオスは定本となるべき、きちんとした楽譜を残さなかったのでしょうか?

Barrios in Rosario, Argentina, 1923 by Poran111
Barrios in Rosario, Argentina, 1923年(38歳頃)

これまで私が調べたところで、この疑問点に対する回答、理由は主に次の二つだと考えます。

・理由(1)~ バリオスの性格的なものによる。つまり、バリオスは金銭欲、物欲が乏しい人間で、音楽、ギターでビジネスをしようとか、金を儲けようという気は全くなかった。だから、自分の曲を楽譜として出版することにバリオスはあまり関心がなかった

・理由(2)~ バリオスは即興演奏を重視し、天性の即興演奏家だった。ひらめきで作曲し、ひらめきで演奏した。自分の作曲した曲をその後自分でどんどん改訂し、変えて弾いていた。つまり、楽譜はあまり重視していなかった。

まず、理由(1)について詳しく見てみましょう。
バリオス研究の第一人者、Richard D. Stoverは、その著書『Six Silberb Moonbeams ~ The Life and Times of Agustin Barrios Mangore』の中で次のように述べています(P.177)。
・・・・・「バリオスは自分の芸術でビジネスをしようと言う気は殆ど無かった。プロ音楽家としてのビジネスの観念が彼には不思議なくらい薄かった。バリオスに自分の曲を楽譜に残し、出版しようと言うことにもう少しでも関心があったなら、彼は忘れ去られ、一文無しで死を迎えることは無かっただろう。」

同書の別のところでは次のようにStoverは述べています(P.192)。
・・・・・「バリオスはその欲のない性格の故に、自分が愛する人々(そして、相手もバリオスを愛した)に、彼が作曲した楽譜、作った詩、描いた素描画、つまり彼の芸術作品を惜しげもなく、繰り返し与えていた。バリオスが作曲した曲の中で、現在まで楽譜が残っているのは約100曲であり、彼の生涯において正式に楽譜として出版されたのはわずか10曲程である。  ~ ~ ~  バリオスは自分の曲などの創作物を、感謝のしるしとして(ある期間、誰かの家に宿泊させてもらったことのへの代価など)、あるいは何かとの交換として、与えることができるものだと考えていた。」


A picnic in Costa Rica, 1939 by Poran111
<コスタリカでのピクニック、1939年(バリオス54歳頃)、
中央がバリオス、右端が彼の内縁の妻、グロリア>

次に、理由(2)を考えてみます。
シーラ・ゴドイは月刊誌「現代ギター」1981年12月号の特集記事『幻の巨匠バリオス』の中で次のように述べています。
・・・・・バリオスは即興演奏の達人で、ほとんど毎日のように曲を作り出していたといいます。霊感の豊かさを告げるエピソードとしては《シヨーロ・ダ・サウダーデ(郷愁のショーロあるいは悲しみのショーロ)》の誕生にまつわる話があります。この曲は1919116日、リオ・デ・ジャネイロのイタマラティ宮殿というところで催された演奏会で初演されています。《ショーロ・デ・サウダーデ》はその2日前に着想され、たった1日で書きあげられた作品なのです。もっと大部な作品の場合でも、彼はいつも非常な速さで書き上げたといいます 。・・・・・

また、Richard D. Stover著『Six Silber Moonbeams ~』によれば(P.205)、バリオスが晩年、エルサルバドルでギター科教授をしていた時の弟子の一人であった Jose Candido Morales は次のように語っています。
・・・・・ バリオスがコンサートで自作曲を即興で変えて弾くのを私は何回も聴いたことがある。コンサートの後で、なぜ曲を変えて弾いたのかとバリオスは質問され、『なぜって、それはインスピレーションが私を襲って、自分がコンサートで弾いているのだということを忘れてしまったからだよ』と彼は答えた。

また、Stoverは同書の中で次のようにも述べています(P.83)。
・・・・・ 疑いもなく、バリオスにとって"音楽"とは紙に書き残されたものではないのである。"音楽"は神秘的な行為であり、生きていることそのものであり、生きている方向付けであり、人間同士を関連付ける鍵であった。そして、このことは、全てを書き残すことへの配慮の欠如に繋がり、また、自分の作品を始終即興演奏し、常に改定していこうとする彼の趣向に結びつく。バリオスはロマンチストであり、また、自分の人生を"真の芸術"への奉仕の巡礼の道だとみなしていた。"今生きていること"の意味についてのバリオスの価値観と見解は、"今の瞬間を生き、そして、将来のために(曲を)理論化することには多くを費やさない"という彼の生き方になったのである。バリオスは極度に情緒的で、繊細な感覚であり、そして、禅の思想が教えるように、生来、"常に今のみに生きる"人間であった。・・・・・

       <ディヴィッド・ラッセルが演奏するバリオス作曲「ワルツ第3番」>

現在においても、例えば、バリオスの書いた名曲の一つ「ワルツ第3番」の例で見ても、2人の巨匠、ジョン・ウイリアムズディヴィッド・ラッセル(上の動画)の演奏する「ワルツ第3番」は楽譜がかなり違っており、また、最近出版された日本のギタリスト鈴木大介編纂の楽譜や、最初の頃に出版されたヘスス・ベニーテス編纂の楽譜も、みんな少しずつ違っています。こういう状況は、バリオスの代表作の一つ「大聖堂」や他の曲でも、多かれ少なかれ起きており、こんなにバラバラな楽譜が出回っている、現代の作曲家は他にいないのではないでしょうか。

A. バリオス研究ノート No.5>

2017年3月22日水曜日

早春の積雪

このところ平年よりも暖かい日が続いていましたが、昨日は朝から湿った雪が降っていました。弱い雪でしたが、夜まで降り続きました。

 <積雪した家の前の道路とランディ 2017年3月22日09:17>

今朝は晴れていて、12cmほどの積雪になっています。車の出し入れにちょっと邪魔なので、朝、家内と二人でアプローチと家の周りの雪掻きをしました。
今の時期は昼間は気温がプラスになりますので、道路上の雪はニ、三日もすれば融けてしまうでしょう。

<雪を食べる庭のランディ 2017年3月22日09:49>

雪を食べるのが好きなランディは庭の新雪を食べて、鼻の頭が真っ白です(上の写真)。

2017年3月21日火曜日

天才バリオスはなぜ長い間評価されなかったのか?


パラグアイ出身のギタリスト、アグスティン・バリオス=マンゴレAgustin Barrios Mangore, 1885年~1944年)は多くのクラシックギターの名曲を書き残した天才作曲家でありながら、長い間正当に評価されず、死後30年以上経ってから漸く世界的に評価されるようになりました。なぜ天才バリオスは長い間評価されなかったのか? これはバリオスに関する、私の最初のそして最大の疑問点でした。(→2017年2月17日付記事「長い間評価されなかった天才作曲家、バリオス」をご参照。)


<バリオス 1918年/33歳頃>

私は時間のある時などにバリオスに関する資料を探し、ギター雑誌の特集記事を調べたり、伝記本、Richard D. Stover 著Six Silver Moonbeams: The Life and Times of Agustin Barrios Mangoré(1992年)を読んだり、WEB上で手に入るバリオスに関する小論文を探して目を通したりしました。

それらを整理して、現在私が考える、長い間評価されなかった理由」は次のことになります。

(1)バリオスがきちんとした、定本となる楽譜を残さなかったこと。
(2)バリオスがほとんど中南米のみで活動をしていたこと。
(3)20世紀最大の巨匠、アンドレス・セゴビアがバリオスの音楽を否定し、時に妨害したこと。
(4)有色人種(混血)であるバリオスに対する人種差別。

これらの要素が多かれ少なかれ絡み合っていたと考えられます。

(1)については、バリオス研究の第一人者、Richard D. Stover が、「バリオスに自分の曲を楽譜に残し、出版しようということにもう少しでも関心があったなら、彼は忘れ去られ、一文無しで死を迎えることは無かっただろう。」と述べている通りです。(Six Silberb Moonbeams ~ The Life and Times of Agustin Barrios Mangore』P.177)。バリオスが自分の作品を楽譜として残し、出版しなかったことは、彼が正当に評価されなかった非常に大きな要素だったと考えられます。この点については、別途詳しく考察したいと思います。

(2)ほとんど中南米のみで活動をしていたこと。
バリオスは1885年5月5日にパラグァイで生れ、1944年8月7日にエルサルバドルで亡くなるまで、1回だけ渡欧したことを除いては、米国に渡ることもなく、中南米のみを転々として暮らし、演奏活動をしていました。 バリオスは1934年9月(49歳)から1936年2月(50歳)までの期間、一度だけヨーロッパを旅行しましたが、音楽家としてはあまりに遅かったと言えます。
当然、当時のクラシック音楽の中心はヨーロッパであり、中南米だけで活動していたのでは、世界に知られることは難しかったと考えられます。

<ハバナに上陸する直前・Salomoni氏家族と~左から4人目が
バリオス/ヨーロッパへ向かう途上  1934年>

(3)アンドレス・セゴビアによる否定、時に妨害については大きな、広範にわたる問題であり、また、これについては諸説があります。従って、この問題は別途詳しく考察したいと考えます。

(4)有色人種(混血)であるバリオスに対する人種差別。
月刊誌「現代ギター」1981年12月号の特集記事『幻の巨匠バリオス』(P.22)の中で、ヘスス・ベニーテスは次のような趣旨の話をしています。・・・・・バリオスは渡欧中の1935年にセゴビアから招かれて、スペインからイギリスに渡り、ロンドンでリサイタルを行い、当初は好評だったにもかかわらず、それを見たセゴビアは一転、その後のコンサートを妨害し、その後の公演は打ち切られ、バリオスはロンドンを離れざるを得なかった(Poran注→セゴビアはバリオスの才能、実力を恐れたものと推察される)。そう言うこともあり、結果としてバリオスはイギリスで成功を収めることができなかった。また、バリオスという人は大男で、いかつい顔をして、目は緑色だったそうだ。スペイン人とパラグアイのグァラニー族インディオとの混血だった。だからこそ、“マンゴレ”(インディオの酋長の名前)と自ら名乗ったりもした。 イギリスで彼が成功できなかったのは、メスティソ(混血)であるがゆえの人種差別も一因だった。メスティソが白人のセゴビアより上手に弾くなどということをイギリス人たちは認めたがらなかったのだ・・・・・。

また、1934年9月から1936年2月までの渡欧中にバリオスはドイツ、ベルリンのアパートに約15か月間にわたって滞在しました。しかし、その間、彼は一度もコンサートを開催することができませんでした。この事情についてRichard D. Stover はその著書『Six Silberb Moonbeams ~ 』(P.152)の中で次のように述べています。「何らかの理由で、コンサートを開くための興行主とのコネクションを作ることができなかった。多分、ドイツの主催者側に若干の人種差別があったのである。」

当時のヨーロッパは当然、白人中心の社会であったので、インディオとの混血だったバリオスに対する人種差別や偏見はあり得ることだったと考えられます。

<パラグアイの女性ギタリスト、ベルタ・ロハス(Berta Rojas、1966年~ 
が演奏するバリオス作曲「郷愁のショーロ」>