2016年2月27日土曜日

キューバ旅行振り返り(9)~ バラデロ→コヒマル→ハバナ空港

1月28日(木)はいよいよキューバ最後の日になりました。朝8時半頃にバラデロのホテル・メリア・マリナ・バラデロを出発しました。前の日に泊まった、キューバ随一のリゾート地、バラデロは一泊で通り過ぎるのは勿体ない所でした。ドイツ人の観光客はここに来たら普通1週間以上は泊まっていくそうです。やはり、こういう所は海にも浸かって、ゆっくりして行きたい場所。しかし、我々のキューバ7日間ツアーでは駆け足になるのはやむを得ません。

<バラデロを出発し、マタンサス付近 2016年1月28日09:30>

バラデロからハバナに向かう道路は大西洋の海岸に近い所を走ります。

<バクナヤグア橋 2016年1月28日09:53>

我々の貸切り観光バスは1時間ちょっと走って、バクナヤグア橋に着きました。この橋は、ハバナとマタンサス州の境に位置する、全長8kmのユムリ渓谷に架かっています。全長313mはキューバ最長で、地上からの高さは112mあるそうです。

<客待ちするクラシックカーのタクシー 2016年1月28日09:58>

バクナヤグア橋の駐車場にもたくさんのクラシックカーが停まっていました。クラシックカーは観光用のタクシーとしてだけではなく、都会でも地方の農村でも、生活の足として普通に使われています。タクシー用のクラシックカーは大概は写真(上、下)のようにきれいに塗装し直されています。しかし、一般に生活の足として使われているクラシックカーは塗装が剥げ、金属部分は錆びて、くたびれた感じのものが多いです。

<クラシックカー@バクナヤグア橋の駐車場 2016年1月28日>

キューバは1959年の革命後、米国と対立し、1962年からは経済封鎖され、自動車が新しく入ってこなくなりました。そのため、キューバ国民はそれ以前にキューバにあった、1940~50年代の米国車を修理し、メンテナンスしながら未だに乗り続けてきています。現地人ガイドのオスワルドさんは「クラシックカーの中は部品の万国博覧会だ」と言っていました。つまり、中国製、韓国製、日産などの日本製等、いろいろな国の部品を使って付け替えられ、メンテナンスされてきているそうです。1940~50年代の米国車は排気量が大きく、燃費効率が悪くて、ガソリンを食うために、エンジンそのものをディーゼルエンジンに取り換えられている車もあるそうです。

しかし、そんなクラシックカーも、キューバのハイウェイでは最近の自動車と一緒になってガンガン走っていいるから、びっくりしてしまいます。

<バクナヤグア橋で演奏するライブバンド 2016年1月28日09:53>

バクナヤグア橋でもバンドが演奏をしていました(上の写真)。キューバでは、レストランやバーをはじめ、主だった観光地など、人の集まりそうな所では必ずと言っていいくらいライブバンドが演奏をしていました。収入を得たいということは勿論あるのでしょうが、それ以前に、やはりキューバ人は音楽好きなのだろうと思います。そして、人気レストランで演奏しているようなバンドは音楽レベルも高いと思われました。

私の好きなクラシックギターの世界でも、キューバにはレオ・ブローウェル(Leo Brouwer;1939年~)とレイ・ゲーラ(Rey Guerra;1958年~)という二人の著名なギタリスト兼作曲家がいます。

<火力発電所/コヒマルへ向かう途中 2016年1月28日10:27>

さて、次の目的地、コヒマルに向けてバスは走ると、途中、火力発電所が見えました。
その先の海岸には油田が点々と見えました(下の写真)。この辺りでは石油が産出されていますが、キューバの消費量を賄うのには到底足りず、石油は大幅に輸入に頼っています。
なお、キューバの鉱物資源としてはニッケルがあり、ニッケルはキューバの輸出総額の10%を占めているそうです。

<海岸の油田/コヒマル近く 2016年1月28日10:37>

11時頃にはコヒマル(Cojimar)に到着しました。ここからハバナ市街まではわずか7km、車で15分程度です。

<コヒマルの漁村 2016年1月28日11:07>

文豪、アーネスト・ヘミングウェイ(1899年~1961年)の愛艇「ピラール号」は当時、コヒマルの港に繋がれていて、ハバナの閑静な住宅地、San Francisco de Paulaの家からここにやって来て、ピラール号に乗って、ヘミングウェイは釣りに出掛けていたそうです。

<愛艇「ピラール号」のヘミングウェイ 1950年 (Wikipedia英語版より)>

彼は、ここに住む漁師をモデルにした小説、老人と海』が大きく評価され、1954年にノーベル文学賞を受賞しました。

<コヒマルの要塞(右)とヘミングウェイの胸像(左) 2016年1月28日11:09>

コヒマルの港には17世紀に建てられた要塞があり、その隣にヘミングウェイの胸像があります。この胸像はヘミングウェイが1961年に自殺した後、地元の漁師たちが自分のボートのスクリューなど材料を出し合って彫刻家に作ってもらったものです(下の写真)。

<ヘミングウェイの胸像@コヒマル 2016年1月28日>

そして、我々の昼食はこの港にあるレストラン「ラ・テラサ」でとりました。ヘミングウェイはコヒマルに来るたびにこの店に寄り、カクテルを飲んだり、昼食を食べていたとの事です。

<レストラン「ラ・テラサ」@コヒマル 2016年1月28日>

「ラ・テラサ」の壁にはヘミングウェイと、その関係者の写真がたくさん飾られています。その中に、ヘミングウェイとフィデル・カストロ前議長との写真もあります(下)。これは有名な1960年5月の釣りの大会「ヘミングウェイ・カップ」でカストロが個人優勝した時のものです。

<レストラン「ラ・テラサ」の壁に架かるヘミングウェイとカストロの写真>

実は、ヘミングウェイはバティスタ独裁政権の腐敗に反発し、カストロの革命運動を密かに支援し、1947年には2万ドルの資金提供をしています。これは外国人としては最も多額な援助でした。ヘミングウェイとカストロが実際に会ったのは上記釣り大会の時、一回だけだったようですが、互いに共鳴していたと考えられます。
このため、米国CIAはヘミングウェイを監視し、圧力をかけていたと言われます。

この後、1960年7月にヘミングウェイは米国に帰国し、1961年7月にアイダホ州の自宅で猟銃で自ら命を絶ちました。

<レストラン「ラ・テラサ」の店内とライブ演奏 2016年1月28日11:59>

レストラン「ラ・テラサ」は12時頃になると、観光客でほぼ満員状態になりました。
ここでも、またバンドが演奏をしていました。

<ダイキリ@レストラン「ラ・テラサ」 2016年1月28日>

私はまずホワイト・ラムを使ったカクテル、「ダイキリ」を飲み、漁師のスープ、キューバ風パエリアと魚の盛合せを食べました。

<キューバ風パエリアと魚料理@レストラン「ラ・テラサ」>

ここがキューバでの最後のレストランになりましたが、キューバのレストランは全てまずまず美味しかったです。(キューバの一般の人たちが日常どのようなものを食べているかは分かりませんが。)

<ハバナ近郊にあるスタジアム 2016年1月28日12:23>

昼食後、いよいよハバナの国際空港に向かいます。
ハバナ近郊に入ると、ハイウェイ沿いに大きな立派なスタジアムがありました。

<ハバナ空港に向かう途中の道路 2016年1月28日12:47>

我々の観光バスは旅行中、主にハイウェイを使って移動しました。
キューバのハイウェイは片側3~4車線ですが、上の写真では中央分離帯がありますが、中央分離帯がないハイウェイもあり、また、レーン・マーク(白線)が剥げて、消えている所もあります。その上、道路照明が一切ないので、夜間ハイウェイを運転するのは相当緊張する、と現地人ガイドは言っていました。

キューバのハイウェイは無料なのは良いのですが、基本的に道路には囲いがなく、自動車専用道路にはなっておらず、次のものが一緒に走り、通行しています。
  ①自動車
  ②バイク
  ③自転車
  ④トラクター
  ⑤馬車
  ⑥人間

ちょっと地方に行くと、ハイウェイに結構の数の馬車が平気で走っているのには驚きました。事故が起きないのか、心配になります。

そして、我々は予定通り、午後1時過ぎにはハバナのホセ・マルティ国際空港に着きました。

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